鮮度

朝。

ストレッチと体操が終わったら、ベランダで成ったプチトマトを採って少し冷やし、コーヒーを入れている間に、昨日作っておいたヨーグルトに自家製のジャムを落とす。

試行錯誤してレシピを仕上げ、もう何年も作っている食パン。トーストして、毎月作っている自家製のレモンカードを塗る。

ベランダのプチトマトを冷蔵庫から出して、これが朝ごはん。

つまり全て自家製。さすがにコーヒーを豆から焙煎するとこまではいかないけども笑、これ以上の鮮度のものは、買い求めても無い。

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反復不可能な知を得る、というワードを得たおかげで、映画の楽しみ方がやっとわかり、この数週間でこれまでの人生で見た本数以上の映画を見てる。

これまでどんだけ見てこなかったんだ、ってことでもあるのだが。

見始めた映画を途中でやめて、他のに変える事も増えてきて思う。

見たくなる映画と、最初の10分くらいで辞めてしまう映画の違いは何だろう?

例えばとても古い映画でも、今に通ずる感覚で見られるものも沢山あり

逆に最新映画であっても、これはいつの話?っていうくらい、使い古された表現で、陳腐でくだらないものもある。

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100年以上前に書かれたピアノの教則本の、本人による解説書を最近読んだ。そこにこんな言葉があった。

暗譜して演奏することには、なんら芸術的価値は存在しない。

仮に2,3の芸術家がその記憶力を誇りたいとしても、それは彼らの私事に属することであって、そこから一つの法則を引き出し、一般原則などとしてはならない。”

耳から学ぶピアノ教本のために/ベアタ・ツィーグラー

長い間、本当に長い間、クラシックを経てポップスをやり、初見も出来る、譜面も書ける自分をもってして、ずっと言い続けてきたこと。100年前も同じだった。

暗譜に、何の意味もない。

もうすっかり、寝てても覚えているくらいに入り込んでいるものならまだしも、暗譜でやってくれ、と仕事で言われ、必死になって覚えたようなものなら、その演奏時に考えているのは何小節か先のことだ。

つまり、そこを演奏しているときには、その演奏はもう、過去のもの。何小節か前に、考えたことを再生しているにすぎない。

そんなものは、過去の自分だ。

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鮮度。

全てはそれに尽きる。

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今出した音が、本当に今生まれた音なのか

書いた曲は、いつ演奏しても今生み出されたような新鮮さを持っているのか

今出した声は、採りたてのいちごのように、瑞々しく輝いて、はちきれそうな鮮やかさを持っているのか

今舞った一節は、心の衝動が押さえられなくて思わず舞ってしまったものなのか

いまやっていることは、いつも新しい驚きや発見があるのか、そうなるように取り組んでいるのか

古い歌謡曲であっても、その当時に新鮮な輝きを持って生み出されたものであれば、時代を経てもその色鮮やかさは何も失われない。

クラシックでも、今残っているものは、100年以上前に書かれたのに、今日発表されたような鮮やかな色をその中に持っている。

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逆に、たった今生み出された音なのに、なんの鮮度もない萎びた音がどれほど多いことか。

練習して練習して練習してできるようになったとしても、その「練習の成果の中で出来が良かったこと」を”再生”しようとした時点で演奏は終わる。そんなものは披露しない方がマシだ。一昨日炊いて腐りかけた冷や飯を金を取って人に出すやつがどこにいるのか。

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海外で暮らしたことはないから海外のことは分からないが、少なくとも日本では、がんばりましたという時間の長さが評価の中心になることが多すぎる。残業大国である所以だ。

同じ仕事量をこなすのに、要領よく定時で終わらせる人と、月100時間残業する人では、手際よくやる人の方が結果的に安い値段で高品質のことを提供してもらえてWIN-WINのはずなのに、月100時間の方が頑張ってて、要領いい人はなんか手を抜いてない?とかもっとやればいいのに、みたいに、頑張った時間の長さを評価対象に乗算するような場面。

暗譜なんてその際たるものだ。必死で覚えました、譜面置かなくても大丈夫ですという人の方が、譜面置いてばっちりの人より評価される。譜面には”見方”がある。譜面の見方を知っていれば、暗譜は必要ない。

楽譜はただの道路標識で、ここは右禁ですよ、ここは速度40制限ですよということが記されているだけだ。何度も通った道なら覚えているが、そこにああそうだった右禁だな、と確認できるものがあるだけで安心して走れるのと同じだ。

ただ覚えるだけの無駄な時間を、その部分の表現を追求する方に使った方がよほど芸術的であり、覚えたことを再生するのに脳を使っていたら、芸術的な表現は出来ない。脳はそのときに一つのことしかできないのだ。

つまりそれは、鮮度。

鮮度のため。

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この業界は腐っている、という言い方がある。

文字通りそうなのだ。

腐っている。つまり、鮮度がもう、無い。

なんの新鮮さも無い。

使い古され、手垢が付いて、ただの技術提供者なのに芸術家みたいな顔をする。

技術提供者であることは、何も悪くない。必要なことだ。

ただ、エンジニアとアーティストは違う職業であって、芸術ごとに関わっているからといって全てが芸術家であるわけではない。それは例え、演奏する者であっても。

そして、熟成と腐敗は違う。熟成は、常に形を変えながら新しい味になっていく。腐敗は、ただ腐るだけだ。

鮮度の失われた腐った糠の中にどれほど新鮮な野菜を入れてもその野菜は腐る。その野菜を新鮮なぬか漬けで食したければ、生きた糠床に入れるしかない。

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音楽で食べるために、みたいな言葉で検索すると

ターゲットを絞って曲を書きましょう

何才のどんな人に向けて書いたものなのか、ペルソナを決めることで焦点が絞られます、と言ったマーケティング理論があちこちに書いてある。

商品を作るならそれがいい。それはエンジニアとしての仕事で、音楽提供エンジニアとして生きていくなら、そのマーケティングは絶対に必要なことだ。

だがそれは、芸術家、とは違う。

エンジニアと芸術家はまったく反対のところにある。

芸術家が、他人軸でものを作ったらそこで終わりだ。芸術家が、自分軸を失ったら、それは芸術家を止めるときだ。

それも、鮮度。

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わたしは、いつも、新鮮で居たい。

みずみずしく、生き生きとしたものとともに。

ただ、もう、それがしたい。

それ以外のものは、要らない。

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