怒りという名の蓋

これまで、自分の怒りという感情と、あまり、というか全然、上手く付き合えずに来た。

アンガーマネジメントというのにも、本を読んだり調べたり、相談したりして何度もトライしてみた。

が、例えば怒りたい気持ちが出てきても30秒待つと消えるから、みたいな指導もあったけど、待ったところで頭に来るものは来るし、腹立ったことが何らかの形で解消出来なければやっぱり後になってぶり返す。その場の瞬発的な爆発を少し抑えるに過ぎず、怒りのコントロールは出来ないまま、ここまで来ていた。

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ある友人に対して、もうこの人には会いたくない、と思ってしまう出来事が昨年あった。その時の感情について、感情が動いて変化した様子をとてもよく覚えている。

その友人の、ある発言に、まず最初にとても驚き、その後、ふつふつじわじわと、悲しみが湧いてきた。涙が出そうだった。というか半分涙が出ていたのをぐっと止めた。止めてしまった。

私のこと、そんな風に思っていたんだ?そんな風に下に見ていたのか?なんだ?結局は、馬鹿にしていたのか?と。

でもその場でそれを言えば良かった。えっ、ちょっと待って、それどういう意味?って聞けばよかった。

バカにしてるのか?!と一瞬思ったけど、全然違う意味の発言だったかもしれないのに、その友人がその言葉を何故言ったのか、その場で真意を確かめたらよかった。のに、押し殺してしまった。

その時楽しく過ごしていたその空気を壊したくない、という気持ちも確かにあった。が、結局はその発言が抜けない棘のようにちくちくと心の奥底に刺さったまま、楽しかった時間も心底楽しめない状態になってしまった。

その後、時間が経って。

その友人に対して、怒りが湧いてきた。

もう2度と会いたくない、連絡もしたくない、信用していたのに、友人も、親しげに信頼してる風だったのに。もう信じられない。

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その友人はその後も普通に接してきた。きっと何の悪気も無いどころか、自分がただその発言を誤解しているだけなのかもしれない。

でも時間が経てば経つほど、言った方は忘れてるだろうし、こちらもわざわざあの時なんであんなこと言ったの、と取り立てて聞くタイミングもない。

そうしているうちに、怒りだけが残り、でもその底にもやもやしたものがあるのをずっと感じていた。

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その友人に対して感じているのは、怒りではなく悲しみ。

信頼していたのに向こうからはそうじゃなかった”かもしれない”寂しさ。

裏切られた”ように感じた”悲しみ。

悲しい、寂しい、辛いという負の感情を長く抱えるのは辛い。のでそれを怒りにすり替える。

本当は悲しくて、そんなこと言わないでよ、どうしてそんなこと言うのよ、悲しいよ、っていうだけのことなのに、それを出すのが怖くて、辛くて怒りに変える。

怒りに変えてぶつければ、自分が悲しんでいるということを知られずに済む、と思っているからだ。

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じゃあそれは、いつから?

いつから自分は、悲しみを怒りにすり替えてしまうようになったのだろうか。悲しんでることを知られたくない、見られたくない、ということがあったのか。

それで思い出したのが、幼い頃自分はひたすら泣き虫だった、という親の発言だった。

自分は幼少の記憶が薄いタイプで、小学校3年くらいからしか覚えていない。

幼稚園の時はひたすら泣き虫だったらしい。魔女っ子メグちゃんというアニメが流行っていた時代で、おなじ名前の自分によく男の子が、やーい魔女っ子〜魔法つかってみろやーって言って、えーん、て泣いていたらしい。

で、先生との面談で、とっても聞き分けがよくって良い子なんですけど、とにかく良く泣かれますねー、と言われた、と親がその後何度も何度も笑いながら言い、それをバカにされたと感じた。

泣くのはだめなんだ、恥ずかしいことなんだ、見せちゃだめなんだ。

そのあたりから、泣かないようにしよう。悲しいよーと思っても、出さないようにしよう。そうしなきゃだめなんだ。って思った、のかもしれない。

自分が怒りの感情が強いのは、中学くらいから感じていたが、小学校を3年生で転校するまでは、それほど怒りの強い子供だった記憶は無い。むしろ今で言う陰キャで、クラスの目立つ子たちの後ろで、ぽそぽそとノートに空想小説を書いて先生に見せては喜んでいる程度のあまり目立たない子供だった。と思う、知らんけど。

給食も一番最後、5時間目になっても飲めなかった牛乳が机の上に置いてある子供だった。

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こうなったきっかけは一つではないだろう。でも、悲しんでる、寂しい、辛い、心配だ、と言う気持ちは、出しても結局受け入れてもらえない、そうしているうちに、怒りですり替えるようになってしまったのだ。

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友人の話に戻すと、その人に対しての気持ちの動きは珍しく事細かに覚えている。そして、その友人の発言が、最初、すごく悲しかった、そしてそれを押し込めた、その後、怒りに変わった、という動き。

自分の怒りの感情の全てに、その下に潜む悲しい気持ち、寂しい気持ち、辛い気持ち。それがある。それを出すのは恥ずかしいことだ、やっちゃだめなんだ、と思い込んでいた。

おそらく、それを受け止めてくれる人がいない、と思っていたし、自分の親はそうではなかったので、そのあたりに元々の原因があるんだろう。でも、そのことに向き合わず、感情の変化に目を向けず怒りで蓋をしてきたのは自分だ。

そう思うと、ここのところとても怒りやすくなっていたことにほぼ全て説明がつく。少なくともその友人のことについては、ただひたすら、悲しい、なんでよ、と、誤解かもしれないのにそう思ってしまっているからだった。

悲しむこと、寂しいと思うこと、それはつまり、自分の気持ちを知ってほしいということに他ならず、それをすらっと出せばいいのに、素直になれず押し隠して怒る。

子供っぽい。。。。

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自分の感情に対して素直に向き合い、ああ、いま自分は悲しいと思ってる、寂しいと思ってる、そのことを、怒りにすり替えず、人に伝えられるようになれば、怒るということは減りそうだ。

そういえば香雪も、ごはんちょうだいよ、お腹すいたよ、なんで散歩行かないの、と言う時に、ちょっと怒る。こっち見てよ、ってことなんだよな。

ふむ。

少し、楽に生きていけそう。かも。

怒るのって、しんどいもんな。ほんまに。

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