多生の袖〜おばあちゃまのお宅へ、その2〜

筑波にいる息子さんが毎週帰ってきてくれる、というお話は立ち話で聞いていたので、いい息子さんですね、筑波結構遠いのに、と言うと

そうねぇ、何かね、○○大にね、週一回教えに行ってるみたいなの、ホテル代ももったいないからって前の日ウチに寄って、朝教えに行って、帰るみたい。
筑波で仕事してて週一で大学に教えに、となると職種がかなり限られてくる。ので、何か研究のお仕事でもなさってるんですか?と聞くと
「そうそう、そうなの!何だかねぇ、難しくって聞いても分かんないのよ、ここに去年載ったっていう雑誌があるんだけど、、」と言って、その雑誌を開いて見せて下さった。ガチの学術誌で論文の内容はデルタ関数が云々、光の波長が云々。。。うむ。不得意分野(笑)
こういう雑誌の投稿だと、後ろに筆者のプロフィールが載っている。読み飛ばしてそこを見る。
私が春まで居た白衣仕事の方の仕事場の、隣の部署の筑波本拠地にご勤務の生え抜き研究者さんでした笑
あはははは!!!
×××研ですか!!!
「んまぁ、よくご存知ねぇ!」
いえ、あたし春までその大阪の***に居たんですよ、今も音楽と研究の仕事、2つしてて。×××研は大阪では隣の部署でした笑
「えええ?!?!」
そこから私のこれまでの略歴を少し話す。
「・・・本当に、あなたとは、何かご縁があるのねぇ。お父さんのおかげかしら、これは。」
そこから、息子さんが生まれた頃のお話、そして生まれる前のお話に。
ーーー
家は神楽坂にあったんだけど、昭和16年の12月8日ね、真珠湾攻撃って知ってる?それがあって、それから間もなくして、B29がやってきたの。仕返しよね。そりゃそうよね。でも最初はね、爆弾じゃなくてね、焼夷弾だったの。
その焼夷弾がね、うちの前のお店に落ちて、そこのご主人はね、それで亡くなっちゃったの。
それでね、靖国神社ってあるでしょう?あそこに、高射砲っていうのがあったの。高射砲って分かる?B29が飛んでくるとね、そこから撃つの、そうするとね、時々あたるの、B29にね。そうしたらね、男の子なんかは、うわぁー当たった!当たった!って、喜んじゃってね。
あたしも見てて、当たって、郊外に飛行機が落ちてったことがあったの、その時のパイロットさんは、生きてはいたらしいけど、そのまま捕まって捕虜になったとか聞いたんだけどね、どうなったのかしらねぇ。
ほんわかとした白髪の可愛らしいおばあちゃまの口からB29の焼夷弾だの靖国から高射砲で撃ち落とすだの凡そ似つかわしくない単語が次々と飛び出す。うわーっと話したあと
「・・・戦争は、いやぁねぇ。」
男の子たちが手を叩いて喜んでた、というくだりを話す時のおばあちゃまの顔はとても険しかった、でもその頃は、それを言ったり態度に出したり、到底出来なかったんだろう。
〜〜〜
リアルな戦争体験を聞けるのは、どんな頑張ってももうあと数年しかない。その頃ある程度分別のつく年頃だった人はみな高齢者になり、十分に話せる人もどんどん減る。聞いてどうなるものでもないのかもしれない。ただ、実際に体験し、どう思い、その後どう戦後を生き抜いてきたかを、識者でなく普通の人から、生活の中にあった戦争の話を聞きたい。
おばあちゃまはその後、戦況が厳しくなって、鎌倉へ越したそうだ。
「もう70年も前のことよ。でも何だかねぇ、最近その頃のことばっかり思い出すの。」
そして、惚れちゃったご主人とは、職場で出会ったらしい。私のね、上司だったの(//∇//) その頃はさ、今みたいに女の人からなんて、考えられなかったの!でもね…惚れちゃったの(//∇//)
はぁ、なんて可愛らしいんだろう。
品川の四畳半一間のおうちでね、狭かったなぁ、息子もそこで生まれたの。主人はお酒が好きで、その日の飲み代が無いと、自分の服を質に入れて飲んじゃうの、ってお父さんなかなか豪傑ですね。。。笑
そのあとね、ここへ越してきたの。ここに越してきたときは、嬉しかったなぁー。
もうここに、50年住んでおられるらしい。ひとりでいまここに居るのも、離れたく無いからだという。息子さんは、筑波の息子さんのおうちに来てもいいよと言ってくれているそうだが、あたしがヤなの、ここ離れたくないの、と笑っておられた。
あっという間に2時間が過ぎる、この間、香雪はというとずうっと私に抱っこされて、話を聞いている。
訛りのない標準語の、優しい語り口。つけっぱなしのテレビからはちょうど、舟木一夫の高校三年生が流れていた。

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