書き続ける理由
ネットの投稿系サイトで、ブログの冒頭を書いて読者を募り、集まったら書く、みたいなものがあることを知った。
文にはもちろん、そういう書き方もある。人の興味を惹くことに主軸が置かれた文章。
ただ、そのサービスを知ったとき、人の承認欲求はどこまで行くのかと気が遠くなる思いがした。
読みたい人がいなければ書かないようなものは、表現ではない。スーパーの安売りPOPだ。
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誰も興味を持ってくれないことでも、少なくともそのことに興味を持っている人がいる。
自分だ。
評価がなければ信じられない程度の自分だから、他人しか信じられないで時間を浪費する。自分を信じることは、自分しか出来ない。
こう表現したい
よくわからないけど、何か表したい。
誰に対して書きたいとか
誰に響いて欲しいとか
基準は他者のためではなく、自分のため。
それが表現だ。
その表現が
多くの人の興味を惹くようなものならば流行るし売れる
数人には突き刺さるが売れない
誰にも刺さらない
それは表現した先に起こった”評価”であって、評価は生んだ先に発生する。
書く、作る理由が評価なのであれば、評価の上がることをひたすら追求すればいい。ただ、その理由が満たされない限り、自分を納得させることは出来ない。10人に認められれば100人に認められたくなり、100人に認められれば千人、以下同文。
その先に満足は決して存在しない。
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なんでブログを書き続けるんですか、と聞かれた。よく聞かれる質問でもある。
理由はない。
書きたいから。
書く理由ではなく
書くことが理由。
ただ、それだけだ。