善意とマイノリティ

まず最初に、今回の東日本大震災において、被災された方々には深くお見舞いを申し上げます。また、被災地の方、震災に関わる現場に携わる皆さん、本当に、今、そして今後のお体やお気持ちの辛さを考えると、言葉もありません。
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色々な考えを色んな人が持っていて、それが交錯し始めている、3日目。神戸の経験から言って、今後、どんどん、人間は、”動物”を発揮してくる。
今は理性で押さえられていることが、長い避難生活や、長い飢餓に近い状態に置かれると、そうは言っていられなくなる。今はきっちり列に並んでいることが出来ても、やがて子供をおしのけて配給のおにぎりを奪う。そんな大人の例など、阪神大震災のときは、いくらでもあった。
地震について何も書かずにいようとも思ったけれど、あまりにも酷いと思ったことがあったので、今日は記したいと思う。
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甚大な被害を受けた、宮城、岩手、福島。報道されるのは、そのあたりの、見るもおぞましい津波の映像や、消え去った街並みばかり。
しかしその影には、少数の方が犠牲になった場所がある。
街自体は窓が割れたとか、少々建物が壊れた程度だが、亡くなった方が出ている、という場所。
数人、もしくは、十数人が、1カ所に、という避難生活者のある場所。
今日、あるミュージシャンと話していて、「東京なんか、街自体そんな壊れてへんやん!」と言い放った人がいた。
東京でも、九段会館の倒壊で犠牲になった方が居る。
もし、その犠牲になった方の兄弟や親族だったとき、その方は同じことが言えるのだろうか。
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一人の命の重さは、千人がいっぺんに亡くなろうが、一人だけ亡くなろうが、どんな亡くなり方をしようが、同じだ。それだけ重い、という言い方もある。それほど軽い、と言う言い方もあるだろうけど。
でも私は、どうしても、一万人の犠牲と、街が消滅もしくは壊滅した方が、ずっとずっと悲しくて
街はほとんど被害が無いけど、一人だけ犠牲を出したのは大して悲しく無い、とは
どうしても、
どうしても、
思えないのだ。
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あるミュージシャンA氏が某所で、友達ミュージシャンB氏がyoutubeで被災地を励ますライブ映像を流すから見てね、というコメントをしていて、そこに一般の方が
「今は節電が大事。機材の電力をどれだけ使ったか自覚して欲しい。」とコメントすると
「それは詭弁だ。救助同様、激励に電力が使われることが正しい効果比率が高ければよしとすべき。激励には連鎖ってものがある。激励の対象は被災者だけではない。よく考えろ!」
”詭弁”
”よく考えろ!”
この時期に、そんな恐ろしい言葉を、よくも平気で放てるものだ。
自分が正しいという姿勢を曲げないで、よしとすべき、と押し付ける。
自分と違う意見を否定し切り捨て、受け入れない。お前は間違っていると否定する。
A氏には今、電気も水も食料も家も無い、家族も失ってなお夜を不安に過ごしている人の横で、その台詞をぜひ正面切って気を吐いてきて欲しい。同じ状況の方を探して、数人に同じ台詞と共にその意気で同じ発言をしてきてほしい。
その通りだと言う人ももちろんいるだろう。
だが、全員が同じ答えをするとは限らない。
少なくとも私は、震災の数日後、親友の訃報を聞いた直後に、ミュージックステーションでSMAPが”がんばりましょう”を歌っていて
ああ、歌ってくれてありがとう、と思うと同時に
あなたは命があるから、そうやって暖かいところでぬくぬく電気使って歌えるんやで、しかも、がんばりましょう、なんて、勘弁してくれ、これ以上頑張れるか
と思ったのも事実だった。
一人の人間の中にすら、複雑な感情が同居する。
多数の人間になったら、色々な感情があってしかるべき、しかも、この状況だ。
”自分は音楽を配信して、元気づける、それは間違ってない、音楽は必要だ!”という「善意」を押し付ける。
善意の押しつけは、宗教の勧誘と同じだ。時にそれは、悪意を纏って現れる。
それが必要な人もいる。
それを、欲しない人も居る。
必要だと思ってる人が多いんだ、正しい効果の方が大きいんだからそれが正しいと思え、と押し付けるのは絶対に違う。
大勢の意見は主流になるが、いつもそれが正義とは限らない。
それは何度も経て来た世界大戦で、日本が、世界が、間違えたことだ。
欲している人のところへ、音を届けたいなら届ければ良い。
それは、本当に、素晴らしいことだ。
でも、それを欲さない人のことを、何故否定するのだろうか。
実際そのやりとりを見て、今私は被災地に居るんです!今は音楽よりも食料が欲しい!!と言う意見には、その方は耳を傾けることすらしなかった。それどころか、「まあ、いつの世も浅い見識から文句たれる人はいるがいちいち反論してる時でもないので、今後バンバンブロックします」とまで言い放っていた。
被災地の人にエールを送るという姿勢はどこへ行ったのだろう。矛盾している。
相手がどのような背景と思慮をもって発言したかを調べた形跡もなく、そう発言された直後に「浅い見識」と一刀両断に切り裂いて、相手を守らずその人の人格まで否定していることに気付いていない。
電力をどれだけ使ったか理解して、と言った人は、その方を守って発言しているのに、その方は、その相手を守ってはいない。
電力をなぜ”使わなければならないのか”の説明も無い。
音楽は、電気を使わずに発信できる方法はいくらでもある。
それをあえて電気を使って発信するのはなぜ?という答えに冷静な答えもなく、詭弁だと切り捨てる。
私は、なぜ電気を使うことにそんなにこだわるのか理解出来ない。
例えば電気を使わなくても、被災地に何かしたいなら、トラックに食料と毛布と満載で積んで、がれきを取り払うのを手伝い、荒んだ空気になってきたらそこで少し歌でも歌う、とかではなぜだめなのだろう。(何度も言うが、その方に絶対にそうしなければおかしい、と言っているわけでは決して無い)
電力をどれだけ使ったか自覚してほしい、ということの答えには、全くなっていない。その質問をした人は、音楽を発信しないでくれ、とは言ってはいない。
音楽を今、発信したい人がいて、それを受け取りたい人がいる。
音楽は今要らない、それより食料だ、でも、もっと先で音楽が欲しい、と思っている人がいて、音楽をもう少し先で発信しようとしている人もいる。
どちらも正しい。
どちらも間違ってない。
ただ、それをお互いに「今音楽を発信しなくていつするんだ」とか
「今音楽を発してどうするんだ」と、自分の意見を強要することは、間違っていると私は思う。
欲しい人のところに、必要なモノを必要な時期に届ける努力をするのが善意だ。
赤ん坊のいない家族に、おむつを1000枚届けても善意にはならない。
==追記(2011.3.15)==
読んで下さった皆さん、ありがとうございます。
批判賛同、さんざん頂きました。励まされた、同じ意見で代弁してもらった気持ちだ、というコメントもありましたし、お前はおかしい、というような批判もありました。

それでも私は、書き続けます。

都内でもトイレットペーパーや食料が買い占められているという情報が入っていますが、先ほど聞いた話では、被災地産の物で、売れ残っているのがあると。そろそろそういった、風評被害も出始める頃かと察します。

福島原発の問題も、徐々に深刻度を増してきています。そうなると、風評はもっと激しくなることが予想されます。
こうなってくると、被災1日目は、とにかく救助、人命!になっていたことが、だんだん、意見が細かく分かれてきます。そうなったときに、大勢にしか目が行かない状態はとても危険です。

私は、今回の私の意見が正しいとは思っていません。

ただ、少数意見が今後、山ほど出て来る、善意ということに関しても、現地に入るボランティアが始まったら、もっとややこしくなります。

その時に
善意だからいいだろう
みんなそう思ってるんやから、それでいいやん

という考えは怖い、という問題を提起したかったので書きました。

もちろん私も、皆さんと同じように、何も出来ない自分に苛立ちを当然覚えております。これでいいのか、と自問を繰り返す日々です。文章に冷静な部分がところどころ無いことは、どうかお許しください。

あともう一つ。私は実名を公開し、ライブをする場所や日付も公開しています。

頂いた批判は今のところ全てが匿名です。私は実名で、文責を負って発言していることも、ご理解いただければ幸いに存じます。

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